まるやまといちばの歴史
■1870年代(明治初期)箱館戦争終結後、開拓判官“島義勇”が札幌を創る人々の食料確保ため招いた山形県農民90人が入植、円山から数本の川が流れ開墾に適した土地だったらしい。
■1880年代(明治後期)に北7条西24丁目付近から遠くは藻岩山下あたりまで北7西24っぽい通り〜南35西10っぽい通りと円山を迂回する25丁目っぽい道路が伸びていて、個人農家が集まり戸板を並べた路面販売が点在し、何度も区画整理し南1条と西25丁目通りを中心に“T型”に活発な商業通りが形成、木造家屋が長屋のように列を成した。
■(1922年(大正11年))路面電車が円山公園まで伸ばす計画が挙がるが、翌年の関東大震災(1923年(大正12年)9月1日)があり、若干延期され、(札幌市営になったのは昭和2年)時の市場が東京に支援物資を提供した。